ブラオシマ

おしまが散歩感覚でブログ書いてます。所感、雑記ブログ。

『自分なんてない』という有吉の言葉を考察する

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自分を大切にするな。もともと、「自分なんてない」と思ってますから。本当に、「自分」なんてあるのかな?ないんじゃないかな

本の中で見かけた、有吉の言葉。
僕の好きな番組「有吉と怒り新党」でも同じことを言っている。

マツコ:ねぇ、「本当の自分」って何?
有吉:へへへ。僕は昔から「本当の自分」なんてないって言ってる。
マツコ:私もないと思うのよ。たぶん人間ってタマネギみたいにどんどんどんどん皮を剥いてったらたぶん何にもなくなると思うのよ。ポリシーみたいなものなんて。

学生のころ、ビール片手にのんびりとこの番組を眺めていた僕。
本当の自分?タマネギ?本当の自分…?

マツコ:これ、ホントにゾッとする時あるんだよね。仕事なくなったら私、何をやって生きるんだろうって。なんにもない、やりたいことが。逆に知りたいのは、ものすごい自分の将来っていうのをさ、すごい計画を立てて生きてる人たちっているじゃん。ああいう人たちっていうのは、その到達目標に向かって、これをなし得るためにはこれをしなければいけない、これを手に入れるためにはこれをがんばらなきゃいけないって生きてるの?
有吉:そうじゃない?
夏目:そういう方もいらっしゃるでしょうね。

仕事に生きるか、家庭のために生きるか、はたまた他のために。
やりたいこと、実現したいことがある人は、世間がいう「意識高い系」の人間。
だとしたら僕も、「意識高い系」の人間になるなぁ。
けっこうダラダラしてるけど、やりたいことはある。
…これってどうなの?
意識だけは高い系

さて。
”自分なんてない”

ふとした瞬間に、テレビで見たあの言葉、雑誌で見かけたキャッチフレーズ、小説のワンシーン、思い浮かぶことはないですか?

僕の脳みそに浮いたり沈んだりするのが、”自分なんてない”です。
有吉はどの視点からこの言葉を言ってるんだろうか。

最近読んだ本の中にも同じような言葉が出てきたので、ここいらで一旦整理してみる。

結論としては、

”自分”という偶像を、アイデンティティとして強く認めると、邪魔。
暗闇の中、恐怖心にかられるのは自分が作り出す”怖い何か”である。

”自分”という自己像は、他者が作り上げた自分と、
自分はこうあるべきという像。

世の中をスイスイと泳いでいくには、この自己像を上手に破壊し、更新していくこと。

人間70%が水でできてるんだし、どうしても譲れないエゴはせいぜい20%にとどめて、あとは柔軟に自分をぶっ壊しながら生きていくのがいいんじゃないか。

こんなところ。

みうらじゅんの言葉、自遊人編集長・岩佐十良の言葉、仏教的な見解から考えてみます。

画像出典:東京国立博物館 - トーハク

みうらじゅんの、「私が」で考えない

「自分探し」をしても、何にもならないのです。そんなことをしているひまがあるのなら、徐々に自分のボンノウを消していき、「自分なくし」をする方が大切です。自分をなくしてはじめて、何かが見つかる

自己主張をしてしまうと、世の中からすぐに「必要がない」「欲しくない」と気づかれてしまう。

この人は、流行っていないものを流行らせる天才。

流行ってなかったもの…地方のマスコット→ゆるキャラ。
このゆるキャラを、
「俺が命名したんだぜ?ゆるキャラって名前、いい線いってると思わん?すごいでしょかわいいんだよ広めてよぉおおおお」

なんていっても世間は反応しない。

”個”を消し、主語を”自分”から「ゆるキャラがさ〜」に言い換えて、大衆の中にうまく溶け込んでいく。
気づいたらみんな、ゆるキャラゆるキャラ言ってる。

「自分なくしの計」、成功なり。

”自分なくし”は共感を得るためのものか

あらゆる人物を自分に憑依させて、自分自身の感覚として「共感」していく

新潟にある「里山十帖」という旅館を経営している、かたや「自遊人」の編集長でもある岩佐十良の言葉。

メディアとして特定の層にコミットしていく場合、その層にいるであろう人物たちになりきり対象のモノゴトを考え、芯の部分を共有していく、というもの。

寿司をトピックとするならば、
カウンターの寿司屋に足を運ぶ人、チェーン店に行く人、出前を頼む人。

それらの像を自分で経験し、芯の部分を探っていく。

みうらじゅんと共通しているのは、
”私が”ではなく、共有すべき”なにか”になりきっていること。

仏教の教えから、”自分なんてない”を考える

仏教の教えに、”空”という言葉がある。

仏教における空(くう)とは、固定的実体、もしくはアートマン(我)のないことや、実体性を欠いていることを意味する。空は時代や学派によっていくつかの概念にまとめられるが、その根本的な部分ではほぼ変わらず、いずれも「縁起を成立せしめるための基礎状態」を指している。

参考:空 (仏教) - Wikipedia

 「空」とは何もないということではなく、この世界は存在はしているのだが、常住不変な世界ではない、常に縁によって移り変わっていく世界である、というような意味である。
常住不変なもの(変化しないもの)は、この世の中に何も存在しない。すべてのものが変化し、移り変わっていく。それがこの世界である。

参考:ブッダへ至る道: 空の思想[大乗仏教(6)]

 有吉の言葉は、”空”の考えに近いのだろうか。
分子レベルの話もいいけど、僕はこうゆう時にパッと出てくるイメージがある。

地球は常に新境地を開拓している

宇宙は広がり続けている。
僕らの太陽系も移動している。

地球は太陽の周りをぐるぐると回っているように見えて、常に新しい空間を移動している。
僕らが立っているこの空間は、数分前には空気も地面もない宇宙空間。
その空間を地球は移動し続け、僕らは生きている。

いつもと変わらぬ日常のように見えて、僕らは新しい世界をどんどん冒険している。

こう考えるとさ、
あぁ、”今”を生きてるんだなぁ。

そう感じるんです。

”自分”っていうのは、他者が作り上げる自分像と、自分が堆積してきた時間によってできている。

”今”を生きるとすれば、”自分”なんてない。

いや、それでも自分はあるよね

名前はあるし、戸籍はあるしで、自分という存在はある。
加えて現代社会は経験の蓄積で食べていく時代だから、過去の経歴も自分の証。

タモリか誰かが言ってたけど、

「自然に振る舞うってのは、その場で”自然に”振る舞うことであって、他の場所で同じことしたら不自然になるんだよね」

プライベートな自分、仕事場の顔、恋人の前、その場その場の”自然さ”が求められる。

どれが本当の自分なんだろう??
なんて悩むことなく、その時々を自分らしい”自分”で振る舞えることができたらいいんじゃないか。

人間70%は水でできてるんだし、流動的な生き物なんですよ。
確固たる”自分だ!”なんてものはなく、その時その時で変化していく自分で生きていく。
自分の意思があるとすれば、残りの20%ぐらいで表現できればいいんじゃないですか。

まとめ

有吉の一言から、ぐるりぐるりと回ってここまできました。

”自分なんてない”

  • ”自分”像は邪魔
  • ”自分”はいない
  • それでも”自分”はいる
  • どの”自分”も”自分”である

さて、何か答えが見出せただろうか。
伝えたいことは、

  • 変化を恐れない
  • 自分像を破壊・そして更新していくこと
  • エゴなんて脳みその奥の方で見え隠れするくらいでちょうどいい 

”自分なんてない”

有吉に直接聞いても、
「んなこともワカンねぇのかよ。ダメだなぁ〜」
という風にかわされそう。
難しいなぁ。何かをやり遂げた後に、振り返ってみるともう少し見えてくるものがあるんだろうか。

今日はこんな感じで!
それではまた!